5分でわかる『TARI TARI』で重要なひとつのファクター。飛び出したり 誘ったり 晴れたり 泣いたり 重ねたり 響いたり あとは時々歌ったり 心の群像劇
放送当時はそこまで人気ではなかったが、
今となっては、P.A.WORKSを代表する青春群像劇を描いたアニメとなっており、
キモオタ御用達である同社の『true tears』や『花咲くいろは』といった地域密着型アニメの花形となり人々の心に深く印象付けられている。
これらの作品を見ていると、
ピーエーワークスは「都道府県の数だけ物語がある」とさえ言いたげである。
タリタリを表面的に捉え、一言で表すならば、「歌」である。
だが、タリタリが本当に言いたいことは、
「才能がなくても音楽は楽しめる。才能が無くても音楽なら自分の世界を表現でき、仲間がいれば笑いあえ、音楽で……歌で……青春を共有できる」
これである。
坂井 和奏の母、まひるは音楽の天才・概念として描かれている。
歌で自分の世界を見事に表現し、また人々を魅了して、死後となった今でも人々の心の中で生きている。
しかし、物語に出てくる教頭は、いわば対比の存在、光の影となっており、音楽的才能がなく音楽を心から楽しめずにいる劣等感を抱えた存在となっている。
「才能がなくても音楽を楽しんでいこう。人生を謳歌していこう」
これが『TARI TARI』において重要なひとつのファクターである。
大体のアニメが先輩と後輩の上下関係を描くために高校2年の設定であるに対し、
たりたりは高校3年生である。卒業が真近だからか人間関係が希薄である。
それは、いずれバラバラに別れる「一年間フレンズ。」だとわかっているからである。
だが、これが妙にリアルな高校生活に見えてならない。
進路も違うし夢も違う、皆がそれぞれの道に進む……少しの間だけの仲間――それが青春ではないのか、と。
30歳くらいのオッサンがタリタリを見ると泣いてしまうらしい。
青春時代を想い出す心がまだ残っているようだ。きしょい。
ピーエーワークスのヒーロー・ヒロインが夢に向かって、若さを武器に猪突邁進する姿を見るのが辛くなるキモオタもいるらしいけどな。
年をとることにより人生に深みがまし、嗜好や好みが変わり、視聴するアニメも変わってくる……。
それで自分にあわない作品は、人生経験を盾に否定する。
兎にも角にも、高校卒業してから見るのと在学中に見るのでは物語の趣がことなってくる。
……これだけはいっておく。
暇人の寄せ集めの集団で歌い、学校は廃校になる……妙にリアルで現実味を帯びている。
もっとも、作品で描かれる廃校といった出来事は「青春の終止符が打たれた」ことを示唆した演出であるためだが。
本編で叶わない約束も良いだとか、今の根暗なキモオタが好みそうな悲壮感を漂わせているのも特筆すべき点である。
「制作側はそんなこと考えてねえから」
とにかく高圧的なキモオタを分析した良い作品であった。
人を舐めた様な態度や頭でっかっちに語るのではなく、
「タリタリいいねえ」。
これに尽きる。
「歌というものは、心の奥から自然に溢れでてくるものでしょ」
「みんなで一緒に歌ったら……多分卒業してバラバラになっても、この歌を聴くたびにみんなのこと思い出すよね………いつかまた苦しいことに出会った時、たくさんの人に応援してもらったことを思い出して、諦めずに頑張れるような気がする」
「この歌に今の俺達の精一杯を詰めて明日に持っていこうぜ!」
坊主なめんな!! 地獄に落とすぞ!!
最終話の場面は会話がないところが演出としてとても素晴らしい。
歌に乗せられて場面が表現されていて思わず涙が出そうだ!!
ちなみにさわちゃんが「日本に帰ってきたら……」などと言ってそうだ。
もっとも海外にいった紗羽ちゃんがグレそうではある。
こなつ→わかな→さわの順で物語が描かれ締めくくられる。
1クールの間この作品に親しんだ視聴者はまるで、自分自身が白浜坂高校に通い自分の青春がタリタリであったかように感じられる。
まさに、タリタリは俺たちの青春である。
青い青春という舞台装置で御涙頂戴の話や心温まるストーリーを展開し、わかったふりをしいるキモオタの目をクギ付けにした紋切型のアニメであった。
映画やドラマやアニメやアニメやサブカルチヤで映える江ノ島や藤沢といったロケーションを起用したのも本作の特色のひとつであろう。
ちなみに、俺はこのアニメが大っ嫌いだけどな。